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蘇軾『黄州寒食詩巻』から思うこと。

11月の個展の準備を少しずつだが、はじめている。

今回、書作にあたって、
今までやって来たことを疑うところからはじめている。

 

現在、上野の東京国立博物館で開催中の
「台北 國立故宮博物院-神品至宝-」の後期展で登場する
蘇軾(蘇東坡)の“黄州寒食詩巻”。

 

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予習がてら、資料を集め感じたことがある。

 

先ず、『同じ作品を納得がいくまで書き続けていいものか。』
というところだ。
書の古典として残されている作品は、そのほとんどが一枚限りの即興で書かれたもの。
もちろん中国の士大夫や文人たちは日ごろから書の修練には怠りなく、
揮毫に当たってはどのように書くかは事前に十分に準備をしたことだろう。

 

日常、お互いにやり取りする尺牘(手紙)にしても単に用事を伝えるものではなく、
お互いに書の技量を競い合う意味を持っているので、
決しておろそかに書くことはないが、基本的には一枚書き。
黄州寒食詩巻を見ていると、書というのは一回限りの即興性にこそ生命があるのであって、
それを消してしまっては書の価値は半減してしまうということがよく分かる。
筆跡を丁寧にたどることによって、蘇東坡が書いているその場の様子が手に取るように分かる。

 

特に、「花」から「泥」への筆の迷い・たゆたい・ゆらぎ。「病」の追記。
「子」や「雨」の修正点。「葦」の最終縦画の補筆。

 

これら、現代日本の書家から見た場合の「書き損じ」は、
何と多くの情報を伝えてくれていることだろう。
見る者に、今まさに書作の現場に立ち会っているという感覚を与えてくれる。

 

もしも蘇東坡がこれらを書き損じだとして書き直してしまっていたとしたら、
黄州寒食詩巻の価値は半減してしまったのではないか。
書とは書かれた言葉、文字のたたずまい、書いた人の心の状態、書かれたその場の雰囲気までも含めて
まるごと記録するものだということを改めて思い知らされる。

 

かといってこれを正解としてしまうと、私の今やっていることや伝えていることは
間違いになってしまう。

 

同じ作品を何枚も書き続ける、これも一つの方法なのだ。
そのときの美意識が、記録として残る。
書作の方法も様々で、文房四宝を選択するように、
何を重視するか、優先するかによって変化するだろう。

 

 

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